2006.7.3 Makoto Ayukawa@TalkShow about Movie"Stoned" & Brian Jones !!
MTV Presents
"ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男"
ブライアン・ジョーンズ命日追悼試写会!! at スペースFS汐留
  Special TalkShow By 鮎川誠&マイク越谷

マイク越谷:みなさん、こんにちは。今日は、MTV Presentsブライアン・ジョーンズ命日の追悼試写ということで、いよいよ8月5日から"ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男"が公開されますが、それに先駆けまして、みなさんと一緒に楽しみたいと思いますが、今日の試写の前に是非映画の事ストーンズの事を語りあおうかなという事で今日の進行役、マイク越谷でございます。どうかよろしくお願いします。そして、私だけでは何となくあれでございますので、今日は僕の大仲良し、日本のロックシーンの重鎮、この方をお呼びしました。大きな拍手で!Mr.Makoto Ayukawa !!
(
"Not Fade Away"のイントロ!と会場からの万来の拍手に乗って鮎川さん登場。)

   

マイク越谷:どうもこんにちは。改めまして、鮎川誠さんです。
鮎川誠:こんにちは。
マイク越谷:という事で今日は始まる前に少しストーンズの話をしようかなんて。
鮎川誠:そうですね。
マイク越谷:今日がブライアン・ジョーンズが亡くなった日なんですよね。
鮎川誠:7月の3日ね。69年。
マイク越谷:あれから37年ですからね。二人で黙悼したいと思います・・。彼は27歳でしたからね。
鮎川誠:27歳。そうだよね。
マイク越谷:あのニュースを日本で聞いたとき、僕はローリングストーンズのファンクラブの会長をやっていた時で、びっくりしましてね。実はそのちょっと前にストーンズを脱退させられてしまうんですよね。
鮎川誠:そうですよね。
マイク越谷:これからご覧になる映画の中にも出てきますけれども、1969年6月の8日、ちょうどその前の年あたりからブライアン・ジョーンズはコッチフォード農場という所に住んでいましてね。クマのプーさんの作者の家に住んでまして、そこのプールで死ぬんですけど。そこに実はミックとキースとチャーリーが行ってストーンズを・・。
鮎川誠:「辞めてくれ。」って言うんだよね。
マイク越谷:びっくりしちゃいますよね。
鮎川誠:今日はみなさん、ブライアン・ジョーンズの事にこんなに興味を持っていただいて・・。僕達は50代なのよね。
マイク越谷:そうそう(笑)。
鮎川誠:60年代に本当にビートルズやらローリングストーンズに夢中になって、今だにマイクも僕もロックロックロックと朝から晩まで言ってるけど、みなさん若い人達がこうやって・・。ローリングストーンズは、悪い、不良のイメージというか、いつもちょっと年上の大人の言う事なんか聞くものかという反抗の象徴みたいな反社会的な存在で、そういうのに僕たちは子供の頃、やっぱそういうバンドの方が、言う事ばっかり聞いてマネージャーの言いなりになってテレビの前でニコニコして演奏するよりも、そんなのに凄い惹かれたというか・・。
中でも、このブライアン・ジョーンズがもーの凄い光ってたんです。60年代。頭もね、ブロンドでね。キースもビル・ワイマンもミックもチャーリーも黒くて。白黒の写真が凄くジャケットとかも多いあの時代でブライアン・ジョーンズだけは白!白い髪で、マッシュルームというのかな、とてもね、そういうルックスもだけど、本当に悪そうやったんですよ。
マイク越谷:(笑)
鮎川誠:今日はその悪いけれど哀れなブライアンの映画なんだけどね。
本当にありがとう。こうやって興味を持ってくれて。嬉しいね。

 

マイク越谷:ストーンズといったらミックとキースのイメージがあって。
鮎川誠:ロン・ウッド、チャーリー、みんな凄いけれども、ブライアン・ジョーンズは、ストーンズのメンバーもあこがれてた、そういう存在。あの人が俺達に口をきいてくれたぜとかバンドに誘ってくれたぜとか。
バンドをやって事がある皆さんだったらわかると思うんだけど、ドキドキする人っていますよね。わあ、あの人かっこいい!とか、ステージで。話しかけてみようかとか、それがミックとキースやったんです。ブライアン・ジョーンズに対しては。最初からそんな存在の人の、最後はクビになるんだけど、おまけにプールで・・・。
マイク越谷:亡くなってしまう。
鮎川誠:マイクも僕もそうだけど、リアルタイムでブライアン・ジョーンズが死んだみたいよとか口づてとか。
マイク越谷:ニュースと新聞とかでね。
鮎川誠:
今みたいにインターネットもないから、「えっ、本当!」っていうのが瞬く間にロック好きの間ではテレパシーで伝わるほどにショッキングにすぐに伝わってしまったけれども、ずっと謎というか、なんで亡くなったか。喘息が、持病があったっていう事でみんな納得してたんですけれども。やっぱり60年代にはジム・モリソンやらジミヘン、ジャニス・ジョップリンも亡くなったりするけど、その中でやっぱり僕やマイクはストーンズが好きやから、桁違いにショックをうけましたね。
マイク越谷:ねえ。彼がローリングストーンズというグループを作ったんですよね。
鮎川誠:
リードしたんよね。導いたというか。

 


マイク越谷:チェルトナムというところに彼は生まれたんだけれども、ロンドンに60年代やって来て、独学でスライドギター学んで、62年に「ジャズ・ニュース」という音楽雑誌にメンバー募集。映画の中でも「あれっ、ローリングストーンズって5人じゃなかったの?」というぐらい、最初6人だったんですよね。最初の「ジャズ・ニュース」に募集してきたのがイアン・ステュワートというキーボードの担当の人なんですけど、その2人がグループを作ろうって言って、その後ミックやキースが参加して、ドラマーとベーシストはイレギュラーでなかなか決まらなかったんですけれども、1962年の7月にデビューするんです。ライブで。それまでグループ名をどうしようって言ってて、じゃあ、マディ・ウォーターズに「ローリンストーン」という曲があるからそれにしちゃえ!って、デビューの時はローリングストーンズじゃなくてローリンストーンズというグループ名でデビューして、その後、ビル・ワイマンとチャーリー・ワッツが加わって、63年にいよいよ本格的な始動をしていくわけなんですけれども。さっき言いましたけど、イアン・ステュワートは、その人だけちゃんとしたサラリーマンをやってまして、お金がそこそこあったので、移動の時のバンを持ってたりしてロードマネージャー的なことをやりながらキーボード奏者もやってたんですけれども、この映画にも実は出てきますけども、アンドリュー・ルーグ・オールダムというマネージャーがレコードデビュー直前にイアン・ステュワートをクビにしちゃうんですよ。何故かといいますとキースやミックはロングヘアーでそれっぽい格好だったんですけれども、イアン・ステュワートはさっき言いましたように昼間働いていましたから、普通のヘアスタイルで何となく格好もロックらしくないっていうんでクビになっちゃうんです。レコードデビュー寸前にね。
鮎川誠:そうですね。「写真には映るなよ。」と言われて。
マイク越谷:でもその人は凄くいい人だから・・。
鮎川誠:
(ステュの事を)みんな頼ってたから、ピアニストとしての腕はいいし。
マイク越谷:その後もレコーディングやツアーとかで、85年12月に心臓麻痺で亡くなるんですけど、それまでずーっとメンバーとして、そしてマネージャーというかサポーティングメンバーとして活躍したんですよね。
鮎川誠:そうでしたね。
マイク越谷:エイベックスから明後日出るハイドパークのフリーコンサートのDVDに今回3曲ボーナストラックが入ってたりするんですけど、その中のシーンにも演奏はしてないんですけど、ステージの横で一生懸命働いているイアン・ステュワートが映ってたり、ストーンズってそういういろんな歴史があって、1963年6月7日に「Come On」でデビューするわけなんですけれども。それからブライアン・ジョーンズがリーダーをだんだん押しやられて行くんですよね。ブライアンは黒人音楽のリズム&ブルースやブルースのコピーバンドをローリングストーンズでやりたかったんですけれども、それじゃあ売れないよって言うんで、オリジナル曲をミックとかキースは作曲なんかした事もないのに・・。
鮎川誠:そうですね。缶詰めにされてね。台所で曲を作ったりして。
マイク越谷:「Tell Me」や「Last Time」なんか作って。それで「サティスファクション」という、これは皆さんよくご存じのロックンロールの名曲のひとつですが、それで65年の夏に全米チャートで第1位になって、これからストーンズがシーンのトップを転がり続けて行くわけですが、それから40年こうして今だにやってますからね。キースも木から落っこったりして大変ですけどね。やしの木から落っこっちゃいましたけど(笑)。でも7月11日からミラノで再び活動するという事で。そんなストーンズのリーダーをブライアン・ジョーンズは奪われたり、あとキースとの恋人の件も言っていいのかな。
鮎川誠:それはね、せっかくだから言った方がいいと思う。映画の中でね、そういう確執が原因という事も知って見ると凄い分かると思うんです。

 

マイク越谷:ブライアン・ジョーンズのガールフレンドがアニタ・パレンバーグという俳優さんだったんですけども。
鮎川誠:ドイツ人のモデル兼俳優。
マイク越谷:映画の中にも出てきますけど、その途中でキースが取っちゃうんですよね。キース・リチャードは同じグループのメンバーなのに、キースの方に行っちゃうんですよね。その後ずっとレコーディングとかでもキースがアニタを連れてきて、それでアニタとキースっていうのはその後もずーっと長く続いて70年代の末ぐらいまで続いて、80年代になると別れてパティ・ハンセンと結婚して、この人も女優さんなんですけど、キースとパティはうまくいってますよ、ずっと。
でも、アニタも何年か前のストーンズのバックステージに時々来るんですよ。だからキースって以外と一回知り会うとずっといい感じであるんですけどね。だから、会った時思わず、「ブライアンってどういう人だったか」聞こうかと思いましたけれども、ドキドキしてちょっと聞けなかったですけど。ちょっと禁句かなあと思って。
鮎川誠:ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコとかアニタとかは、いわゆるスーパー・グルーピーちゅう感じでね。60年代の。
マイク越谷:そういうことをいろいろ知っておくと、この映画って面白くて、今日見てストーンズの流れとかを見たりすると「ああそうだったんだ」って、また2回目3回目見たくなって・・ブライアン・ジョーンズは、IQ135でオックスフォードにも推薦入学できるほど小学校の頃から頭が良かったんだけれども結構早熟で早くから子供が出来ちゃたりとか何人か出来ちゃうんですけど、ブライアンがそんな中でどう言ったらいいのかなあ、いろんな意味でこの映画の中のどうして殺されたかというのが、今まではずっと事故死と扱われてたんですよね。
鮎川誠:そうですよね。そう思ってたし。でも映画の中でいろいろ教えがあると思うけど。
マイク越谷:監督がスティーブン・ウーリーという人で、いろんな作品をプロデューサーとしてやってる人だったんですよね、「ビギナーズ」とか「バックビート」もそうだし。
鮎川誠:「バックビート」も。
マイク越谷:「インタビュー・ウィズ・ヴァンバイア」のプロデューサーもやったんですけど、1994年に2册の本が出ましてね。1册の本は、現場にいた、映画にも出てくるんですけど、フランク・ソログッドの死ぬ前の「ブライアンを殺しちゃったんだ」という手記を基に本を書いてて、もう1册は医者の検死を聞いてブライアンは殺されたんじゃないかという事で94年に2册本が出て、それをスティーブン・ウーリーが買い取って、映画を作ろうとずーっといろいろ調べて、どうもその2册の本はちゃんとした確証をつかんでないという事でスティーブン・ウーリーは、ブライアンの専属看護婦だったジャネット・ローソンと1969年3月からブライアンのガールフレンドだったスウェーデン人のアンナ・ウォーリンという人にインタビューして、改めて確証を得て映画を作ったということでありますけど、凄いシーンが出てきますよね。
鮎川誠:そうですね。ロックの世界にはね、どういう死に様やったとか言うのは、ロバート・ジョンソンというキース・リチャードも
マイク越谷:クラプトンも
鮎川誠:クラプトンもブライアン・ジョーンズもみんなが崇めたブルースマンが1930年代に亡くなる時に犬のように四つん這いになって吠えながら、のたうちまわって、毒を盛られて、手を出したカミさんのダンナから毒を盛られた、そうやって犬みたいに死んだぜ、とか、そのロバート・ジョンソンは、悪魔に魂をクロスロードで売って、一晩のうちに突然うまくなって、今僕らはCDで聞く事ができるようなあの素晴らしい「クロスロード」とか「カモン・イン・マイ・キッチン」とか「ウォーキン・ブルース」・・
マイク越谷:この映画の中で「ストップ・ブレイキング・ダウン」が出てくるんですよね。

 


鮎川誠:ローリングストーンズも取り上げた。映画の中で実際かかるのがかっこいいし、ブライアン・ジョーンズも「クールな奴だ」って言う。あれはブラインド・ウィリー・ジョンソンの事を言ってたか。
そういうブルースマンの、ブライアン・ジョーンズも本当にもう今となっちゃ同じぐらいの、僕らが始めてロバート・ジョンソンを知った時と同じぐらい時間が経っているのかな。ミック・ジャガーがもう60年代に言っていた言葉だけれども「60年代というのは何でも実験する時代で、音楽も実験する、ファッションも生き方もそしてドラッグとかもたくさんあって何でも試したりする。でも、ダメになる奴は自分が悪いんだ。」っちゅうミック・ジャガーはそういうルールをぴっしゃりNHKのテレビのインタビューでも言っていたぐらいに、ブライアン・ジョーンズは、結局この映画で自分が悪い、命を落とす奴は誰が悪いとか周りのせいじゃない、ブライアン・ジョーンズは生き急いだというか、素晴らしい才能を開花してもう一花僕らは楽しみにしてたんだけど、それをできずに、やっぱりストーンズからクビを言い渡されたことはもう最後の希望を失った・・それもあったかも知らんし、生きていくために危害を加える奴をはねのけないといけないんだけど、病気からとかいろんな力をなくした・・・けれども、この映画の中で、とても素敵なシーンがあって、僕達は「マジカル・イン・モロッコ」という70年代にブライアン・ジョーンズが彼の名前で唯一出したレコードがあって、僕達はそれが出た時に本当に異次元にトリップするような素晴らしい体験をした、そういう音楽を僕らにもたらしてくれたそういうシーンとかがもの凄く良い風に映画の中にあるので、是非お見逃しなく。
マイク越谷:そうですね、モロッコのね。
鮎川誠:フィールドレコーディングという地元の「ジャジューカ」というモロッコの音楽集団に出逢ってテープレコーダーを回して、
それで一緒になってブライアンもあの中に入ってたのかと思うと何か涙出るほど嬉しいシーンがありましたね。
マイク越谷:日本のローリングストーンズ初来日の時の登場を思い出してほしいんですけど、東京ドームでの10回コンサート、タラタラタラってテーマがあって、ドーン!と花火と伴に「スタート・ミー・アップ」でストーンズが登場するわけですが、そのテーマ(「コンチネンタル・ドリフト」)はローリングストーンズが89年、モロッコに行ってレコーディングして、それをテーマにしたという事で、何やかんや言っても、ストーンズは彼の事を受け継いでいて、正式インタビューではなかなかそれを言わないんだけれど、バックステージでミックやキースと話をした時にそういう事をね・・。
鮎川誠:ローリングストーンズにブライアン・ジョーンズがいたという事は、ビートルズやらいろんなアメリカのボブ・ディランとかまだエルヴィスも生きてた、ブライアン・ジョーンズって凄い社交というか、たぶんキース、ミックはまだちょっとガキなんですけど、
ブライアン・ジョーンズは、もう対等なんですね。ジョン・レノンやらポールやら、ジョージやらと。もうミックもキースもすごい頼ってた面があったと思うです。60年代にブライアン・ジョーンズがいた事で。本当にそういう名士という言葉が適切かわからんけれども、本当にブライアン・ジョーンズは社交の大使。何と言うか、ロックシーンの顔役ですね。そういう存在やったんですね。それでね、ジミ・ヘンドリックスとかみんな頼ってくる、ブライアン・ジョーンズが窓口。ローリングストーンズの。スポークスマンとはちがう意味で象徴というのかな、そういう偉い人やったんです。
マイク越谷:時間もそろそろなんですが、その60年代のロックの流れなんて言うのを、これ(「'60sロック自伝/鮎川誠」)を読むとよく分かるんです。宣伝しちゃいました。鮎川さんが書いたばっかりの本です。

 


鮎川誠:僕達は、シーナ&ロケッツというロックンロール・バンドをやってるバンドマンなんです。
ずっと同じストーンズが好きでビートルズが好きで、ディランやらブルースをずっと追い掛けている一(いち)バンドマンなんですけど・・、ブライアン・ジョーンズの事やらストーンズの事やら、僕のラブレターです。よろしくお見知りおきをください。
マイク越谷:そしてこれから本当よろしくお願いしたいんですけども、"ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男"は、8月5日から渋谷シネクイントとか吉祥寺のバウスシアターなどで公開されますので、これは1回2回じゃねえ、見る毎に見方が違ってきますんでね、いろんな方連れて何回でも楽しめると思いますので、ご覧いただければと思います。いろいろトークショーをやってきましたが、こんなにシーンとして聞いてくださってありがとうございます(笑)。緊張しましたね。

 


鮎川誠:最後に、もう一回同じ事を言うようですけれども、
こういう悪い奴がいるロックシーンというのが、僕は大好きです。そうじゃないと「人畜無害みたいなのばっかりでロックやられてたまるか。」という気持ちがありますから。60年代にこう時代があった、この映画が皆さんをまだ見た事のないそういう世界に連れて行ってくれる事をしばし楽しんでほしいと思います。
マイク越谷:という事でシーナ&ロケッツ、鮎川誠さんでした。
鮎川誠:どうもありがとう。
マイク越谷:進行役のマイク越谷でした。



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